平ヶ岳

平ヶ岳

■平ヶ岳へのコース

百名山のなかでも平ヶ岳(ひらがたけ)は、その名のとおり、平らで大らかな山容と、無数の地溏、高山植物の豊かさで、抜群の魅力を有し、多くの登山者の心を引き付けてやみません。当小屋から鷹ノ巣尾根コースの往復について、ご紹介します。

■コース日程の概要

【登山コース例】 (日帰り12時間30分)

清四郎小屋→(0:25)→鷹ノ巣登山口840m→(1:00)→前坂1197m→(1:20)→下台倉山1604m→(1:00)→台倉山1695m→(0:15)→台倉清水(水場)→(0:45)→白沢清水(渇水が多い)→(1:30)→姫ノ池(池ノ岳)→(0:40木道)→平ヶ岳山頂2141m→(0:20)→花清水(水場・山頂のわき水)→(0:20木道)→玉子石→(0:20木道)→姫ノ池→(0:50)→白沢清水(渇水が多い)→(0:45)→台倉清水(水場は少し降りる)→(0:15)→台倉山1695m→(0:50)→下台倉山1604m→(0:50)→前坂→(0:40)→鷹ノ巣登山口840m→(0:25)→清四郎小屋

  • 渇水期には、水場が涸れることがあります。
  • 山頂の花清水は、涸れることが少ないです。
  • 白沢清水は近年、渇水することが多くなっています。
  • 台倉清水は、休憩しやすい場所です。水場は、登山道から少し下ったところです。
  • 個人差もあり、タイムが合わないことがあります。
  • 休憩等のタイムは別に予定してください。
  • 登山コース途中にトイレはありません。自然環境を守るため、携帯トイレのご持参をお願いします。
  • 地元・魚沼市の指導により、キャンプ(幕営)禁止です。

※平ヶ岳では地元・魚沼市の指導により、自然環境を守るため緊急時以外、キャンプ(幕営)が禁止されています。近年、登山道や木道、板敷きなどを外れて立ち入ったり、登山やテント泊に伴う排泄やゴミなどによって、周辺環境に大きな影響が出ています。地図上でテント場や水場などと記載されていますが、緊急時用のスペースです。指定地以外のキャンプは遠慮しましょう。

運が良ければオコジョに会えるかも…?(宿泊者提供)

道なき山からの経緯

 1916年(大正5年)に高頭仁兵衛氏(1877~1958・新潟県深沢村・現長岡市出身)が、「平ヶ岳登攀記」という本を出版し、大正四年七月十八日に登頂した登頂記を記述しています。(参考:青空文庫Amazon)

 1920年、木暮理太郎氏(1873~1944)が利根川源頭の山脈を縦走して、山頂に立っています。

 1962年(昭和37年)秋、「日本百名山」の深田久弥氏(1903~1971)が、新潟県側からバスで入り、完成したばかりの奥只見湖(奥只見ダム)を船で渡り、登山道のない藪を漕ぎながら4泊5日をかけて山頂に至りました。小出山岳会の伊倉氏や桜井昭吉氏ら総勢5名のチャレンジだったようです。

 湯之谷村(現魚沼市)から銀山平(奥只見湖)までは江戸時代、銀山から銀を運び出す唯一の道として「銀の道」として栄えました。枝折峠の旧道ですが、駒ノ湯温泉から明神峠を越え、銀山平の石抱橋までの約12キロの道です。
 自動車が通行可能な道路整備は遅く、大湯温泉から銀山平までの車道開通は太平洋戦争中です。

 また奥只見ダム開発に伴い、国道352号・枝折峠を貫く総延長22kmの道路「奥只見シルバーライン」が建設されます。豪雪に備えるため総延長のうち18kmはトンネルで、着工から3年後の1957年11月に完成するまでの間に延べ180万人の人員を投入、最盛期には1日当たり3,700人が建設に従事する難工事でした。工事に伴う殉職者は44名で内17名は雪崩や凍死によるものでした。
 奥只見ダムは1960年に主な本体工事を終え、発電を開始。翌1961年7月完成し、本格稼動することになりました。
 この「奥只見シルバーライン」の開通により、新潟県側からのアクセスが一段と良くなりました。

 地元住民の悲願であった、県境を越えて福島県檜枝岐村までの、自動車道路が全通したのは、1972年(昭和47年)です。やがて国道352号線に昇格し、それに伴い、当時の湯之谷村が現在の登山道を整備しました。有名大学のワンゲル部が競って登る人気の山は、俄に知名度も増し、多くの方々が訪れています。当時、26歳の浩宮様も、1995年(昭和61年)10月に登頂されています。